桂歌丸さんと言えば、近年、体調不良による入退院を繰り返し、2016年には笑点を勇退されました。
日本で一番有名な落語家と言っても過言ではないかもしれません。
そんな歌丸さんの歴史を幼少期から現在の活動まで追っていきます。
プロ根性がすごすぎて泣けます。
桂歌丸のプロフィール・経歴
年齢:80歳
本名:椎名 巌(しいな いわお)
1936年 横浜市真金町生まれ
小学校4年生:落語家を志す(終戦直後)
「戦後、日本には笑いというものが何もなかった。テレビもなく、NHKのラジオだけだった。」
「週に2回、寄席の番組みたいなものがあったんですよ。昭和の名人と言われる人たちが、お出になってわんわと笑わせている。それを聞いていて、これからは笑いだなと思った。それで私は噺家になろうと思った。」
15歳:古今亭今輔に弟子入り
古今亭今児の名をもらい、本格的に落語の世界に
18歳:二ツ目昇進
21歳:富士子さんと結婚(幼馴染)
落語家人生の危機
「協会に反感を持ったんです。若手がみじめな扱いをうけていた。それでみんなで反旗を翻そうとして飛び出して振り返ってみたら誰もついてきていなかった。それで私は1人になっちゃった。それで居にくくなって、1年半くらいで飛び出して」
寄席の出番が少ないことを不満に思い、独立をしようとしたが、失敗してしまった。その結果、今輔門下を離れることに。
約1年半 落語から無縁の生活をすることに。
「噺家が噺を話せないことくらい辛いことはない。ずいぶん頭の中でやったりしましたけどね。1人で喋ってみたりした。」
「メッキ工場や、化粧品のセールスマンを1年くらいカミさんとやったりしていた」
やはり自分には落語しかないと思い、今輔師匠に謝罪したところ
今輔
「またウチへ入れる訳にはいかないから米丸さんの一門になりなさい」
今輔師匠の計らいで落語の世界にカムバックすることができた。
古今亭今児→桂米坊(かつら よねぼう)
カムバックしてからは、セールスマンの経験が活きたという。
「商品を売ることよりも、芸を売ることよりも、一番肝心なのは自分を売ること」
「悪い人間を売るよりも良い人間を売る方が売りやすい。人に好かれる人間になるべき」
1964年 桂米坊→桂 歌丸
笑点 放送開始
1966年
放送1回目から出演
当時は、司会をしていた立川談志さん以外は名も知られていない噺家のみだったため、1年ももたないのでは?と言われていたそうです。
実際は、すぐに人気番組になったという
罵倒して笑いを取るという新しいジャンルを開拓
歌丸
「新聞を読んで一言っていう問題が出たんですよ。そこで『小圓遊が殺されたぞ』って言ったんです。そしたら、小圓遊がすぐ手を挙げて『小圓遊殺しの歌丸が捕まったよ』って言ったんですよ。その後、私はすぐに『情状酌量の余地があって釈放されたよ』って言ったんですよ。これがバカウケしたんですよ」
これを機に歌丸さんは笑点の屋台骨として活躍していったそうです。
林家 木久扇(79)
「笑点の中では三遊亭小圓遊師匠と歌丸師匠がケンカするというのが売り物になっていて、小圓遊師匠が歌丸師匠のことをハゲというと、歌丸さんが『フランケンブルドッグ』なんて言って笑いを取っていた」
「悪口も芸にするという新しいジャンルを感じました。」
2006年5月21日
笑点の司会に就任
その司会ぶりは共演者からも絶賛されている。
春風亭昇太(57)
「たいちゃんともよく言うんだけど、うまいんだよな」
林家たい平(52)
「すべったなって思ったら助け船だしてあげるし、うけた時には一緒に盛り上がる。1つ1つの回答をすべて大切に拾ってくれる」
2016年5月22日 最後の大喜利
妻の富士子さんは、これまで1度も大喜利を観覧したことがないという。
歌丸
「私たちの時代は、かみさんは楽屋に来ちゃいけない、寄席へは顔を出すなと教育を受けた。周りがこっちに気をつかって、かみさんにも気をつかわなきゃいけないから。」
最後の日ばかりは、記憶に残しておきたいということで妻が観客席で観覧することになった。
最後の笑点収録終了後のコメント
歌丸
「泣くまいとは思いましたけれども、やっぱり悲しいです。でも、落語はまだまだこれから続けていきます。よろしくどうぞお願いします。ありがとうございました。」
涙する歌丸さんが印象的でした。
歌丸
「どうもお疲れ様でございました。50年間皆様とお付き合いをさせていただきました。皆様とお別れすることは、本当は辛いんですけれども、別れていかなければ番組後が続かない。昇太さんをはじめ、円楽さん、木久扇さん、好楽さん、小遊三さん、山田くん、大平さん。皆さんにお任せを致しますので、決して笑点というものを無くしてはいけないと思っています。その責任が皆さん方にございますので、よろしくどうぞお願いをいたします。長い間お世話になりました。ありがとうございました。」
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翌日 歌丸さんは高座に上がった
このままいったら「笑点の歌丸」で終わってしまう。それは嫌だ。噺家の歌丸で終わりたい。
俺は落語家として終わりたい。
肺気腫による息苦しさ
セットの階段わずか4段を昇るだけでも一苦労。酸素ボンベで酸素を吸入しないと息苦しく、普通に話すことも大変になってしまう。
自宅では、夜寝る際に3階の寝室に上がるまで、なかなか踏ん切りがつかないそうです。
妻からは「お父さんが寝ようと言ってから1時間以上は時間がかかる」と言われているが、実際にそれくらい時間がかかってしまう。
※安静時のSPO2は79%という数値が出ていた。健常者では96~99%
講演終了後、「あーしんどい、苦しい」と言いながらすぐに酸素ボンベで酸素を吸入する歌丸さん。
このような状態であっても、噺をしている時には苦しさを一切感じさせないところにプロ根性を感じますね。
講演後、すぐに体調を崩してしまう。
12月14日には定期健診時に肺気腫の悪化のため緊急入院。過労が原因だったという。
12月21日 退院翌日、無理をして高座に上がる歌丸さん。
退院翌日、無理をして高座に上がる決心をした理由
昨年、7月に予定されていた落語会が歌丸さんの体調不良によって中止になっていたからだという。
体調としては、1週間の入院生活で体力が落ち、高座まで歩くことすらままならない状況になっていた。
歌丸
「退院は昨日、だから本当だったら無理。先生は高座やっている時も酸素をしてくれって言うんですけどね。今回は、息苦しさが収まるのに時間がかかるんですよ。酸素やっていても数値が上がらないんですよ(SPO2)。ほら81%しかない。死んでんのと同じですよ。」
「今日、一番不安なのが、この調子で喋れるかどうかってのがね。ここのところ喋ってないからね。どういう風になるか。」
出番ギリギリまで酸素ボンベで呼吸を整える歌丸さん
いざ開幕
高座が始まれば、さきほどまで辛そうにしていた姿は一切見せずしっかりした声で話し始める歌丸さん。
30分という長丁場を酸素ボンベなしでやりきった。
落語が終わると、耐えがたいほどの息苦しさを感じると言い、まさに「息も絶え絶え」という状態。
苦しそうに呼吸を整えようとする姿が印象的でした。
歌丸さんは、どんなに息苦しくても高座に上がればしっかり声が出るという。
理由は「よく分かんねぇ」とのこと。
これもプロとしてスイッチが入るということなのでしょう。
「先人の残した噺を喋って磨く。私にはその責任がある。」
「落語やる以外何もないじゃないですか。他になにやるんです?何もない。まだまだ覚えたい噺、やりたい噺、数多くありますからね。まだまだこれからやっていきたいですね」
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感想
笑点で観ていた歌丸さんの姿は、お元気に見えていました。
「限界」ということで笑点を勇退されたことは知っていましたが、今回の密着映像をみたところ明らかに余裕はなく限界に近いという感じがしました。
もはや命を削って噺家をしているといえますね。
そのような辛い状況にも関わらず、今後も噺家として活躍していきたいという強い意思が感じられ感動しました。
個人的には、あまり無理をせずにガンバって言って欲しいところです。
今後も、噺家としての活躍を応援していきたいところです。
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